第1902回例会

第1902回 例会記録   No.29
平成 27 年4月8日
司会 : 中澤 広樹     編集 : 江口 公晴


会 次 第

1.点鐘
2.ロータリーソング
    「それでこそロータリー」
3.会長卓話
4.幹事報告
5.スマイル報告
6.会員卓話
    木村 二夫 会員
7.出席報告


会長卓話
 
松ア 義一 会長

会員の皆様こんにちは。
本日は、ロータリー財団の父、アーチ・クランフ氏についてお話をさせていただきます。

ロータリー財団の始まり
一人のロータリアンの夢が現実に
 
アーチ・クランフがロータリーの基金について語った、1917年のアトランタ国際大会に出席した人々

 



アーチ・クランフ
 (1869〜1951) 明治2年〜昭和26年
ロータリー財団の創始者。1916−17年(大正5年)度ロータリークラブ国際連合会(後の国際ロータリー)会長。アメリカ・クリーブランドRC会員。入会時の職業分類は「材木−−卸売ならびに小売」。 1917年(大正6年)、アトランタ国際大会で、「世界中で善いことをする目的のために基金を設置することは極めて妥当なように思われます」と述べ、この提案が「ロータリー基金」という名前でスタート、1928年(昭和3年)のミネアポリス国際大会で「ロータリー財団」として認証されました。よって彼は、「ロータリー財団の父」とたたえられています。  

アーチ・クランフの生い立ち
ペンシルバニア州コネチカットで1869年(明治2年)6月6日に生まれたアーチ・クランフは、オハイオ州クリーブランドで、彼の人生の大部分を過ごしました。彼の母親は有名なアメリカの小説家ジェームズ・クーパーの子孫で、父親の先祖は、1771年(明治8年)にニューヨークに定住しました。
アーチは12歳のときに一家の暮らしを助けるために学校を退学したので、ほとんどが独学でした。彼はクリーブランド設けられた夜学に通うことによって、学力の不足を補いました。
18歳でクリーブランドのキューヤホガ製材所の雑用係の職につきましたが、すぐに昇進して、最終的には会社の会長、総支配人そして経営者になりました。また、彼は製箱会社や銀行の社長や、不動産業と汽船会社の副会長を務めました。彼はクリーブランドに留まらずオハイオ州における実業界と地域社会双方の組織でも活動し、法的な件に関する建設業者のスポークスマンの役割を果たしました。
彼の芸術的センスは素晴らしく、優れたフルート奏者として、クリーブランド・シンホニー・オーケストラで14年間も演奏する傍ら、マネージャとして活躍しました。また、彼はスポーツでも活動的でした。
ロータリーにおいては、偉大なロータリー財団になる基礎を作ったアーチ・クランフとして、最も大きな貢献をしました。1917年(大正6年)に、カンザスシティーロータリークラブからの26ドル50セントの寄付金から始めた財団基金は、今日何億ドルもの基金に成長して、外国に行って自らが選択した学問を追求する機会を全世界の学生に提供しています。
また、アーチは地区組織を構成する基礎となる、標準ロータリークラブ定款と細則の制定に関わりました。1914年(大正3年)、クリーブランド・ロータリークラブに入会して3年後に、アーチ・クランフは国際ロータリークラブ連合会の理事になり、1916年(大正5年)には会長に選出されました。
1951年(昭和26年)6月3日に逝去しました。

始まりは26ドル50セント
1917年(大正6年)、アーチ・クランフはアメリカ・ジョージア州アトランタで開催された国際大会で、「ロータリーが基金をつくり、全世界的な規模で、慈善、教育、その他、社会奉仕の分野で、何かよいことをしようではないか」と提案しましたが、その背景には、彼の生い立ちが影響していたのかもしれません。
彼の提案は、同大会で採択されました。ロータリー基金(ロータリー財団の前進)への最初の寄付は、1917年(大正6年)、ミズーリ州カンザスシティーロータリークラブからの、26ドル50セントでした。今日のレートで計算すると、3,000円と少しというところですが、今から約110年前のことです。現在の物価に換算するとどのくらいの金額になるのでしょうか。アメリカと日本の違いもあり、単純に換算することは難しいのですが、私たちが単純に考えているよりは、はるかに多い金額だったのかもしれません。

ロータリー基金→ロータリー財団へ名称を変えたのは、1928年(昭和3年)です
生みの苦しみを味わっていたこの基金も、基金総額が5,739ドル7セントに達した1928年のミネアポリス国際大会で、この基金による事業開始の時がきたとして、基金の名称をロータリー財団と改め、国際ロータリー定款・細則も改定されました。
ロータリー財団がこれほど効果的なのは、資金と人を組み合わせるからであります。
ポール・ハリスは1934年(昭和9年)にクランフに出した手紙にこう書いています。「私たちは、あなたがこの運動に何年も注いできた努力以外に、おそらくこれといった努力をすることなく、いつか、突然、自分たちが何か非常に重要なものになっているのに気づくような気がする。」

ロータリー財団プログラムが初めて実施されたのは、1947年(昭和22年)です
1947年(昭和22年)には最初の財団プログラムが実現されました。それは、高等研究奨学金と呼ばれるもので、1年目は、米国、ベルギー、英国、フランス、メキシコ、中国の18人の若い人たちが選ばれ、他国でそれぞれの専門分野を勉学しました。当時は、この人たちはポール・ハリス・フェローと呼ばれていましたが、最初の国際親善奨学生でした。
ロータリー財団は、多くのロータリアンによって、大きく花開くことになりました。特に、日本のロータリアンの果たす役割は、ロータリー財団の大きな支えになっています。ロータリー財団に寄付をするとき、ロータリー財団の資金を使ってさまざまな奉仕活動をするとき、アーチ・クランフの「小さなひらめき」が、その第一歩であったことを思い出してください。


幹事報告
 
小宮山 大介 幹事
・市内各ロータリークラブより、4月、5月の活動予定表が届いておりますので、掲示板をご覧ください。
・越谷クラブより、舞の海氏の講演を含めた公開例会は4/21(火)です。


内部卓話
 
木村 二夫 会員

戦後70年 私の青春

(生まれ)
私は昭和12年(1937年)生まれで今年78歳になります。同年代の有名人といえば美空ひばり、ゴルフの杉原選手、今も元気な加山雄三さんでしょう。当クラブでは、稲垣さん、鈴木(英)さん、桜井さんです。
葛飾区のお花茶屋(旧、亀有)という所で生まれました。6人兄弟の次男です。
今年は戦後70年の節目で、松ア会長もこれを意識しての流れかと思います。今年の職業奉仕委員会では霞ヶ浦の予科練平和記念館へ、来週の4月18日〜20日の国際奉仕委員会親善旅行はサイパンですから。
(戦後50年)
私が北クラブに入会して、今より20年前、戦後50周年の青木康國年度、横須賀の海軍基地へ見学に行き、横須賀の有名な海軍料亭"小松"に立ち寄り、太平洋戦争における連合艦隊司令長官であった東郷平八郎、山本五十六、伊東祐亨、その他多くの大将の掛軸を見せていただきました。
(戦後70年)
そして戦後70年。今年度は予科練平和記念館を訪問しましたが、大正時代は霞ヶ浦海軍航空隊として発足し、昭和14年に飛行予科練習部、いわゆる予科練が横須賀から移転してきて、終戦まで役割を果たしました。
平和記念館に入ると、すぐ目の前のガラスケースに白鞘の日本刀が展示されておりましたが、あれは戦う人の守り刀として昔から大切にされているものです。
本日、会長の許可を得て実物を持参しましたので、興味のある方は卓話後にお見せ致します。
 
(入学)
小学校に入学した時は、すでに太平洋戦争が始まって2年目で、入学1ヶ月位で都内の小学生は全員地方へ疎開する事となり、親戚のない子供は集団疎開で地方のお寺や公民館などへ疎開しました。私は山梨の伯母の所へ疎開しました。
(開戦)
開戦当初は、日本の海軍とゼロ戦の優秀な戦いで、フィリピン・サイパン・硫黄島・グアム島・レイテ島・ペリリュー島など占領していましたが、開戦2年もすると船の時代から大型飛行機の時代になりました。日本の飛行機は地上7,000m位しか高く飛べませんが、アメリカでは大型爆撃機B29が造られ、10,000m以上の上空を飛んで、日本の上空で爆弾をバラバラ落として、また本土(サイパン)へ帰れるだけの飛行能力が有りました。
この時点で日本本土の制空権は完全に奪われていました。ここでやめておけば原爆も落とされなかったかも。
(食べ物)
集団疎開では子供達の食べ物が少なく、食料に飢えていた様ですが、私は山梨の伯母の家でしたので飢える事はありませんでした。
(終戦)
小学校3年生の時、終戦となりましたが、東京は焼け野原になっており、1人では帰れず、迎えに来てくれたのは小学校4年の終わりの時で、やっと自宅に帰る事が出来ました。
帰ってみると、親戚中で焼けなかったのは私の家のみで、我が家も会社の寮も親戚の人達で一杯、食べる事も大変で、東京は食料不足で満足にお腹一杯食べる事が出来なかったのです。
(外国人)
私が初めてアメリカ人の見たのが5年生の時で、トラックの荷台に黒人が沢山乗り、亀有の遊郭に遊びに向かう所でしたね。
(中学校入学)
小学校の先生が中学の受験願書を持ってきてくれたので、文京区の学校でしたが見に行った所、校庭にプールがあったのでその学校に決めました。当時のお花茶屋はプールがなく、川で泳いでいました。
入学後、すぐ水泳部に入ったのですが夏だけのクラブで、春・秋・冬はバレー部に入部させられましたね。
親からもらえる小遣いが月500円でしたが、コッペパンにジャムをぬると15円、ラーメン35円で、とても足りずに姉から毎月500円もらい、それでも足りない時は、父の留守の時にサイフからチョロした事もありましたね。
(倒産)
高校2年の時に自宅の会社が、大きな不渡手形を受け倒産してしまいました。
(就職)
卒業後、大学に行かず繊維関係の商社に入社しまして、1年間は板橋の倉庫でトラックの助手として横浜へ綿花の引取りと配達をしながら綿花の種類を覚えました。2年目から日本橋の本社営業部に廻され、営業の先輩と同行販売を2ヶ月行い、その後、川越方面〜日光方面〜千葉方面のお客様をもらい、バイクで売りに廻りました。
雨の日つらかったですが、好きなバイクの営業ですから楽しかったですね。
(レース)
22歳の時、日本で初めてバイクのレース(全日本第1回浅間火山レース)が開催される事になり、理解のある社長から応援するから頑張ってこいと言われ、10日間の休みをくれました。
(レース当日)
当日は大雨で、私達のクラブから3人出場したのですが、2人は途中棄権し、私の3位入賞だけでした。
一緒に出場していたうちで有名になったのが高橋国光選手と生沢選手ですかね。
(死亡事故)
レース場は一方通行なので死亡事故は少ないですが、街中での交通事故で友人2人が死亡し、私も24歳でバイクをおりました。


ごあいさつ
例会に先立ち、石井知章会員よりご挨拶を頂戴しました。
 

石井 知章 会員

長い間、クラブを休ませていただいてありがとうございました。1月中旬から2月下旬まで山口先生の紹介で広尾の日赤に入院させていただきました。

手術は成功したのですが、その時に感染症になりまして、退院後も1ヶ月通院し雑菌を取り除く治療を受けました。この度、雑菌も全部取れたと太鼓判を押されたので、普通の生活に戻ることになりました。その間、わざわざ広尾までお見舞いに来ていただいたり家へ来ていただいたり、皆様方にはいろいろとご心配をおかけしました。本当にありがとうございました。これからもロータリー活動を続けさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。





木村さん、卓話よろしくお願いします。  松ア義一
木村さん、卓話よろしくお願いします。楽しみです。 小宮山大介
石井さん、早く元気になって良かったですね。木村さ
ん、卓話楽しみにしています。     
中村義雄
季節が逆戻りしてしまいました。体調をくずさないよう
に気をつけましょう!!          
大熊正行
川間コース積雪でクローズになりました。残念でした。
木村さん、卓話楽しみにしています。
小林政一
木村さん、本日卓話楽しみです。石井さん、全快おめ
でとうございます。              
青木清
木村さん、本日の卓話よろしくお願い致します。石井
さん、ご回復おめでとうございます。 
鈴木英男
長い間休んでしまい申し訳ございませんでした。20年
以上の腰痛から解放されほっとしています。これから
は元の生活に戻ります。       
石井知章
木村さん、卓話よろしくお願いします。 宮ア敏博・
堀野眞孝・
太田靖彦
今井英治・
本間孝・
小林操
石井さん、退院おめでとう。木村さん、本音の話をお
願いします。              
小河内梅幸
石井さん、又元気に例会に出席して、お顔を拝見し
てホッとしました。             
関森初義
昨日は奉仕委員会の皆様ありがとうございました。 松井昭夫
4月12日金婚です。よく持った。    橋正美
・前回欠席申しわけありません。       木村二夫
桜吹雪が終わったら本当の雪。ジェットコースターの
ような天気ですね。            
江口公晴
本日早退します。すみません。       大濱裕広
世界平和の為に。               末木照久
マイド!ありがとうございます。        本間睦人

出席報告
会員数 55名
出席免除者 11名
出席者 43名
欠席者 12名
出席率 78%


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